いつかサヨナラが来るなら100年後よ

 

 

船木結ちゃんがアンジュルムハロープロジェクトを卒業してから1年半が経つ。

それで今日、船木結ちゃんは20歳を迎えた。

 

お元気ですか、ふなちゃん。

めちゃくちゃ幸せじゃなくても、それなりに楽しく生きていてくれたらわたしは嬉しいです。

いや、できればめちゃくちゃ幸せであってほしいけれど。

 

好きなアイドルが卒業してから今日まで、わたしがどんなふうに思いながら生活をしてたか、というと大げさだけどこの気持ちをどうしても文字にして残したいと思っている。

 

わたしはふなちゃんが20歳を迎えるのを本当に楽しみにしていた。

ハロプロの子たちが成人式のときに振り袖姿をブログにアップしているのを見て、ふなちゃんが20歳になったとき振り袖姿が見れるんだ!と楽しみにしていて、それまでに卒業してしまうなんて少しも考えていなかった。

その思い、というか執着はふなちゃんが卒業しても変わらず・・・

ふなちゃんがこうして20歳になろうとしているときにわざわざブログを書いている。

 

あ~ふなちゃんの振り袖姿見たかった~~~~~!!推している女の子の振り袖姿を見れる人間全員うらやましい~~~!!

 

ふなちゃんの振り袖姿へのキモいまでの執着の話終わり。

 

 

卒コンがあった1ヶ月後くらいにふなちゃんの卒業特番があって、それがとてもいい番組で、でも泣きすぎて感情がグッチャグチャで頭がおかしくなりそうだったから一度見たきりずっと封印してた。

けど昨日、初めて見返してみた。

そうしたら思いのほか普通に見れた。見れちゃった。

ああこれが卒業して1年半経ったってことなんだ、と思った。

 

ふなちゃんが卒業してからどのくらいまでだろう、ずっと寂しくておかしくなりそうだった。

 

初めのうちは、アンジュルムのグッズが公開されるたびに内容見て、あ~ふなちゃんいないんだった~!ツラ~い!って叫んでた。

ひなフェスの抽選動画が上がれば、ふなちゃん今年はソロがいいな~!・・・いないんだった~!ってずっこけた。

ふなちゃんと再会して抱き合うっていうなんとも都合の良い夢も見た。

好きなダンスに出会う度に、これはふなちゃんが踊ったらかっこいいだろうな、とか想像した。

+81 DANCE STUDIOのコレオグラファーの名前が「MUSU」じゃないか毎回チェックした。

ふなちゃんとお話したメモとか、ライブ行ったときの自分の感想を事あるごとに見返して、そのときのことを思い出して楽しかったなあ戻りたいなあって思った。

ふなちゃんの居ないアンジュルムの単独コンサートを見て、ここの立ち位置はふなちゃんだったな~とか、ふなちゃんのこのパートはいまこの子なんだって知って無性に涙が止まらなくなったりもした。

 

まあとにかく船木結ちゃんの超亡霊オタクと化してた。

 

それがいつからか、思い出す回数が減ってきた。

 

それがつらくて、これ以上思い出さなくなるのが嫌で、どうにかしたくていまこれを書いてる。

別にこれを書いたからってふなちゃんへの気持ちが現役のときみたいに大きくならいないこともわかってるけど、それでも足掻きたいと思った。

 

ふなちゃんがグッズにいないことにも、アンジュルムの新曲PVにいないことにも慣れた。

好きなダンスに出会ったときに、ふなちゃんに踊ってほしいなってふなちゃんを思い出すこともあんまりなくなった。

自分が当時行ったライブの感想を読んでも、そのときのことがうまく思い出せなくなった。

自分の記憶の中にしかない、双眼鏡で見てたふなちゃんの映像も全然思い出せない。

映像には残ってないけど絶対にこの目で見たはずの好きなふなちゃんのダンスがどこだったかもだんだん忘れていってる。

それとこの間、久々に会った友達に「なんでばっさり髪切ったの?」って聞かれて、ふなちゃんたちがショートにしたから私も真似した、って理由をすぐに思い出せなかったのはかなりつらかった。

現場だけじゃなくなにかある度に記録みたいに残してたツイートたちを今見ても、そのときの気持ちが思い出せない、タイムスリップできない。まるで他人のツイート見てるみたい。

いつかふなちゃんの卒コンを見ても泣けない日が来るかもしれないのが怖い。

 

ずっと寂しいままでいたいし、ふなちゃんがいなくても明るく楽しく生きていけるようにはなりたくない。

いないことに慣れたくない。

事あるごとに思い出して辛くなりたいし、やっぱりふなちゃんがいないと人生うまくいかないや!ってなっちゃえばいいのにと思う。

そんなのが楽しくないなんてわかってるけど、楽しくなくていい。

ふなちゃんを忘れて楽しい人生を送るほうが嫌だ。

 

こうやって文章に残して、無理矢理寂しくなろうとしてるんだと思う。

でもこうやって文章に残したら、また気持ちが整理されて寂しさが減っちゃうのかな?って思う。

いまこうやって書いてるのが、私にとって正しいのかも分からない。

 

大好きだったはずなのに、大好きなはずなのに、大好きの根拠になってる記憶がどんどん薄れていく感じがする。

 

映画「リメンバー・ミー」で

”心臓が止まった時が一度目の死、生きている世界の誰からも忘れ去られたとき二度目の死を迎える"

っていうのがあって、印象が強くてずっと頭に残ってる。

 

表現が物騒になるけど、アンジュルムにいた船木結ちゃんは1年半前に死んでる。

確かに1年半前は居たけど、今は居ないしこれからもずっと居ないし。

この先アンジュルム船木結ちゃんに会えることは一生ない。

これが一度目の死だとしたら。

 

もしも私が、ふなちゃんがアンジュルムにいたこと、アイドルをしてたことを忘れちゃったら、私が自分の手でふなちゃんを殺すことにならないかな、と思う。

もちろん、当然、他のオタクたちがふなちゃんのこと忘れるわけはないからこれは私の中だけの話で。

私の記憶の中で生きてるふなちゃんは、私だけのもので、私が忘れたら死ぬんじゃないか。

たぶんこれが二度目の死だ。

 

だから、どんなに記憶があやふやになってきても、思い出す回数が減っても、私はふなちゃんがいまも大好きだぞー!ってこの先ずっと言おうと思う。

私の中のふなちゃんを私が殺すわけにはいかない。

私のクソみたいな記憶力には負けない、抗ってやろう。

忘れていく過程もこうやって全部残す。

 

ああでも、やっぱり書いたら気持ちに整理がついてスッキリしちゃったかもしれない。

書かなければよかったかな?分かんないな。

 

私の記憶の中のふなちゃんは、私が死ぬそのときまで一緒に生きてもらおう。

いつかサヨナラが来るとしたら、100年後だよ。

 

意地でも忘れない。

ずっとずっと大好き。

 

船木結ちゃん、20歳の誕生日おめでとう。